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       書 と 無 為 自 然              古邨 田 邊 萬 平   

 

 

 

     

 

  書は人工より出でて自然に帰するものだと言はれてゐます。人工に始まるといふことは説明するまでもありませぬが、

自然に帰するとはいかなることか、少し考へてみたいとおもひます。

  第一に作り物といふ感じを与へる書は良い書ではありませぬ。それは自然でないからであります。庭のコスモスは自然に咲いてゐます。柳の葉は自然に散ってゐます。雨は自然に降って土を潤し、風は自然に吹いて雲を動かします。嬰児はひもじくなると自然に泣き、乳を飲むと自然に止みます。

  自然といふ語はオノズカラ・シカリと書きます。特にかうしようといふ意志や作為が無くして、おのづからさうなるといふ意です。コスモスには咲いてやらうとか、どんな咲き方をしようとかいふ意志も作為も無いけれども、咲くに適した条件が具って来れば咲きます。嬰児はこの辺で泣いてやらうといふ意志も作為も無いけれども、泣くに適した条件が具って来れば泣きます。それが自然といふものです。

  ところがコスモスは何年経っても意志や作為を見せませぬが、人間は生まれて半歳も経たぬうちに意志と作為とが作用するやうになります。母親に甘えたいために吐くほど乳を飲まうとしたり、故意に泣いて見せるといふのがそれです。これが不自然の始りであります。

  知恵がすべて悪いのではないけれども、知恵が作用すると不自然になる。それは間違ひないことです。書ではそれを嫌ひます。無為自然を貴ぶといふのがそれであります。無為といふのは為す無しといふ語ですから何も為ないことだとおもふ人もゐるかも知れませぬが、何も為なかったら書にならない。為ないのではなくて作為する所が無いといふ意味であります。作為とは小知恵を働かせて外面をつくらふことです。頭の働きが先にとび出して、気持がこれについてゆけないのです。

  筆意といふ語があります。これは運筆に現れる筆者の気持ちです。書は筆意の芸術だといふのは、何よりも運筆に現れる気持を貴ぶからです。その筆意が自然に現れるとおのづからリズムをもって来る。拙づければ拙づいなりに流動して来る。性情の流露といふのがそれです。性とはその人に具ったもの、情とはその動きです。流は流動、露はあらはれといふ意味です。性情が流露するといふ、それが書の第一条件なのですが、知恵が働くとそれが停止してしまふ。不自然だからです。したがって無為は自然、自然は無為であります。

  しかし始めから無為自然になれるものではありませぬ。私たちが書を学習する時は、何か法則を立てなければ何一つおぼえられるものではない。懸腕直筆といふのも法則の一つです。筆鋒の弾性を活用するのも、開閉の手際を自得するのも法則によらねば出来ることではありません。その法則を書法といひます。書法は知恵です。知恵によらねば何一つ技法を習得することは出来ないのです。しかし作品を生む時は書法をおぼえてゐてはいけませぬ。おぼえた書法は忘れ去った時、初めて働きとなって来ます。

  無為自然で書かれた書にはその実力が遺憾なく現れます。身体の細胞にしみ込んだ書法即ち知恵は、無為自然の時、最高度に発揮されるものです。書法は知らなければ学習できないけれども、頭に在る間は表現の支障になります。 

 

 

 

        注: この随筆は、書道活法会が、昭和46年(1971)11月1日付けで発行した”書道誌「活法」に掲載されたものです。

           仮名づかいは原文通りです。(聲画洞主人)

                                                 

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